創造表現学会企画 「成宮アイコさん 朗読&トークイベント」文字起こし(前半)

 2025年12月5日(金)に創造表現学部創作表現専攻主催で、朗読詩人の成宮アイコさんをお招きし、朗読&トークイベントを行いました。『戦わない日のうた』 『伝説にならないで』 『ノンフィクション』 『世界は水面』の4篇を朗読していただき、その後専攻の教員加島正浩先生と対談を行いました。その対談と質疑応答の模様を3回に分けてお届けいたします。

■手段としての朗読

加島 ありがとうございました。私がこの後にしゃべってしまって、余韻の邪魔をしてしまっていいのかなという気がするのですが(笑)2曲目で『伝説にならないで』を朗読し終わった後に、この詩の言葉は自分には言わないとおっしゃっていて、意外だったんです。成宮さんは自分に言われたかった言葉を詩で書いていらっしゃるという話をどこかで拝見して、でも『伝説にならないで』は自分に向けた言葉ではないんだとおっしゃっていたので、意外だったんです。まずはそこからお話いただいてもよいですか。

成宮 「伝説にならないで」は率直に言うと「死なないで」、という意味なんですけれど、そのまま伝説にならないでっていう言葉の受け取り方もできると思うんです。それを最初に読んだ時に、すぐ「死なないで」っていう意味が通じてしまう人と、言葉の通りに読んでくれる人といるのですが、それでも最終的には「死なないで」という意味も伝わるんだなと思ってびっくりします。私もメンタルのヘルスがあんまり健康的ではないので、ちょっと自分に言うのは難しいなあと思うのですけれど。

自分には言えない言葉を朗読でずっと言い続けているのは、『伝説にならないで』には、伝説になりたいって言って14階から飛び降り配信自殺をした〇〇ちゃんという女の子のことを書いたんですが、大阪でライブした時にとある男性が、「自分は〇〇ちゃんの親族です」って話しかけてくださったんですよ。私は〇〇ちゃんのことをなかったことにしたくなくて勝手に書いたので、後ろめたい気持ちがあったんですけど、その方が「ありがとうございます」って言って話しかけてくれたので、言い続けると伝わることもあるんだなって思いました。

加島 確かに私もつらかったら授業来なくていいよって、さぼってもいいよって学生相手になら言えるんですけど、自分に言えるかというと、言えない。絶対にさぼらない。

成宮 そうそう自分はダメなんですよ。自分以外のみんなはめちゃくちゃ頑張っているからさぼっていいけど、自分は頑張らないといけない。

加島 どれだけしんどかろうが絶対に自分はさぼらないし、自分には言えないのだけれど、それでもその言葉を言い続けることで伝わることがあるというのは、そうなのかもしれないですね。

4曲目に『世界は水面』を朗読していただいて―今日朗読していただいたのは、本当にベスト版みたいな感じがいたしますが―Youtubeにアップロードされているミュージックビデオを拝見すると、そこでの『世界は水面』は自分に向けて朗読していらっしゃり、『伝説にはならないで』は呼びかけるように朗読していらっしゃるように思ったんですが、今日の朗読は『伝説にならないで』も『世界は水面』と同じように朗読されているなと思ったんです。

今日改めて朗読を聞かせていただいたときに、自分には言えない言葉を、でも、自分に向けて朗読されているのかなという気がしたんですが、そこはいかがでしょうか。

成宮 『伝説にならないで』を書いていたときは、私はメンタルヘルスの業界を中心に活動していて、その時期の朗読は生きづらい人に届けるための手法だったので、自分が一番生きづらかったときにどうしてほしかったかなと思うと、「あなたは繊細だから、鬱になったから、休んでいいんだよ」って言われても、机とか汚いしとか(笑)お風呂もあんま入んないしとか思うと、きれいごととして扱われてきれいな言葉を渡されても受け取れなかったんですよね。どうしてほしかったかなというと、「生きるぞ!こっちについてくれば大丈夫だ!」って言われた方が何もしないで生きていていいんだと受けとめられた気持ちになったんです。だからこの『伝説にならないで』を読んでいた頃はアジテーションをしようと思って朗読をしていました。

ただその後ライブハウスにいっぱい出ているうちに自分が思っていたわかりやすいメンタルヘルス界隈ではない人たち、たとえばライブハウスによく通っている一見ウェイ!な感じな人とか、すごいお堅い職業についている私から見たら立派と思ってしまう人。伝わらないだろうなってこっちが勝手に思っていた人のなかから「すごく分かります」って言われたときに、自分が思っているところと違うところにも生きづらさがいっぱいあるのだろうなと思って、じゃあメンタルヘルス業界だけじゃないところに生きづらいことを伝えるにはどうしたらいいんだろうと。

だから『世界は水面』はBGMとしても邪魔にならないように、だけどしっかり聞いてもらえる人にも伝わる読み方にしようと思って。前はメンタルヘルス界隈へ伝わってほしい思っていたけれど、今は誰もが生きづらい部分があるのだと思ってやっています。

加島 いまのお話と音楽なしでは朗読されないというのも関係がありますか。

成宮 そうですね…。私は自分の書いたものを詩だとは意識をしていないし、ちゃんと「文学」としての詩を学ぶ人からはどう思われるんだろうなと考えてしまうので、「詩です」っていう定義をしていないです。なので、朗読詩人といえば朗読のために書いていることになるのかなと思って、そう呼んでいるんですけど。

加島 朗読に至って「完成」ということなんですかね。

成宮 そうです。詩を書きたいわけじゃなくて、コミュニケーションがしたい。話すのが得意ではないので会話でコミュニケーションは難しくて。そこで、「朗読をします」という手段は便利だった。自分が書いた数々の嘘だったり本当だったりする日記を渡すのは難しいけれど、「詩を書きました」だとちょっとニュアンスが広がって自分にとっては使いやすいです。だから何か書いたものを「詩です、朗読します」と言ってしまえば、コミュニケーションができるんだと思って継続をしてきました。

加島 そう思われたのはいつ頃からですか。

成宮 10代の終わりからです。

加島 新潟にいらっしゃった頃からなんですね。ではマイク通してしか朗読をされないというのもいまのお話と関係がありますか?

成宮 そうですね。自分の地声で話すときと、「マイクなしで届けます」っていう張ったときの強い声の表情って違うじゃないですか。普段とは違う音量で、人としゃべらなかった日のことを朗読するのはちょっと意味から距離ができてしまうので、真夜中に書いたものならば真夜中のトーンで読めるように、息継ぎも聞こえるように、マイクを通しています。

加島 詩人には何パターンかあるなと思っているのですが、ひとつはもう絶対に朗読したくないタイプの人。愛知淑徳大学創造表現学部の前身である文化創造学部で長らく教えていらっしゃった荒川洋治さんなどは、絶対に朗読したくないっていうタイプの方。

逆に成宮さんのように朗読が完成形で、それを目的にしてという詩人の方。あとは詩と朗読は別と捉えている方。朗読は朗読でひとつの芸なのだけど、それは詩とは別だという捉え方もあるなかで、成宮さんは朗読が最も重要、と。

成宮 そうですね。手段です。会話にたどり着くための手段として書くことがある。

加島 会話ができたら、書かなかった?(笑)

成宮 そうです、会話の代替えとしていろんなパターンの日記を何種類も書く時間なんてもったいないです(笑)

■手段としての詩

加島 私も変な日記を書いていたことがあって。横に日付、縦に年齢を書いたノートがあって、たとえば横が3月7日だとしたら、縦に19歳、20歳、21歳と年齢が書いてある。

まず、19歳の自分がそこに「20歳のお前にはわからないだろうが、今俺はこういうことで苦労している。20歳のお前にはわからないだろうけれど、それはお前の感受性が摩耗したせいだ」とか書いている。で、20歳の自分がそのページに「お前はそういうことを言って20歳の俺を凌駕したつもりになってるだろうか、それは全く届いてない」みたいなことを書いて、21歳の自分がさらにそこに書き足して……という面倒くさいことをやっていたんですよ。なんでそんなことしてたんでしょうね(笑)

成宮 会話はできてたんですか。

加島 会話はできてたんですよ。でも足りなかったんでしょうね、たぶん。しゃべってはいるんですよ。でも本当に話題にしたいことがしゃべれなかったということだと思うんです。苦しいんだって、生きづらいんだって言ったときにシュッと人が逃げていくというのが、すごくしんどかったんだと思うんです。

成宮 「昨日あのドラマ見た?」のレベルのニュアンスで、「昨日の夜寝られない時、何をして耐えた?」みたいな話ができていたら、書かなかったかも。

加島 私もそれができてたら書いてないですね。あ、成宮さんと事前打ち合わせした時に非常に面白かったのが、「大学の人は私のこと嫌いだと思っていたら、イベントに呼ばれたのでびっくりしました」とおっしゃっていたことで(笑)確かに私、大学人ぽくないんですよ。

成宮 ライブをしているときにいろんなライブをするんですけど、昔発行されていた『BURST』という雑誌がありまして、世界中のアンダーグラウンドカルチャー・タトゥー・ドラッグなどが載ってる雑誌の編集長と一緒にライブをした回に限って加島さんがお客さんとして来られていて(笑)終わったあとに感想を検索していたら、「このライブに来た人、どうやら大学の先生らしいぞ。なんでよりによってこの日に来たんだろう」と思って、そこから監視リストに入れて見ていたら(笑)毎日寝れないとか、つらいとか書いてるし。ちょっと自分と似た感じもするけれど、大学で文芸や表現を学んだ人は、わたしの書いているものは作文なので、また「詩」ではないと言われるだろうな、嫌な気持ちにさせていないといいな、と勝手に思っていたので、大学に呼んでいただいてびっくりしました。

加島 これは「詩」じゃないって言われるのは、詩の評価にずっとあるんです。「I was born」で有名な吉野弘という詩人がいますけど、「I was born」も1952年に発表されたときには、「こんなのは詩じゃない」って言われたんです。これは散文だと。自分が体験したことをただ書いただけじゃないかと。中原中也などを踏まえて考えたら何のレトリックもないし、こんなストレートな表現は詩じゃないって言われましたけど、高校三年生の教科書に長らく載っているし、非常にいい詩ですし。

そう考えた時、成宮さんの詩が「詩」じゃないと思われるってことは、新しいことをやってらっしゃるとか、既存の詩がやろうとしなかったことをやっていらっしゃるんだと思うんです。既存の詩は、「しんどい」とかストレートに言ってくれないですよね。もっと言ってくれればいいのにっていうのが、あるわけです。いまでも太宰に救われたりとかするわけじゃないですか。

成宮 「太宰病」にかかったり。

加島 そうです、そうです。詩人でそれにあたるのが朔太郎だったりするのかなとは思うのですけれど、ちょっと遠い気がするんですよね。いまの時代からみると。少なくとも私は遠かったんです。中也も朔太郎も読みましたけど、詩がいいなという気持ちにはならなかった。

成宮 詩という形自体を私は、「すごく便利な手段を見つけたぞ」という気持ちだったので、手段として使わせてもらってごめんなさいと思ってしまって。詩集コーナーに置くのも少し違う気がして、ノンフィクション棚でもいいですよって、本屋さんには伝えました(笑)自分でもまだどう扱ったらいいかよくわからない、申し訳ない気持ちになります。

加島 堂々となさればいいのにって私は思うんですけれど。

成宮 「メンタルヘルスの棚にしてください」って(笑)

加島 (笑)ちなみに本屋さんでは何の棚に置かれていることが多いんですか?

成宮 出版すぐの後の紀伊国屋さんは普通に詩のコーナーにあって、ごめんなさいと思ったけど、ありがたくて写真を撮りました(笑)

■SNSにいる「わたしたち」

加島 手段として詩を使ってらっしゃるのが成宮さんの独特なところだと思うんですけれど、同時に我々はSNSを手段として使うじゃないですか。

成宮 そうですね。

加島 SNSに詩を載せたときに成宮さんの詩は朗読がメインですので、身体性が強いと思うんですが、身体性の強い詩がネットに載ると身体性がそぎ落とされると思うんです。そのときに伝わり方とか、たとえばSNSをやっていて成宮さんの言葉が伝わるときと、ライブで身体性が全面に出ているときの伝わり方の違いがあれば教えていただきたいのですが。

成宮 逆に見てくださっていた側からすればどうですか?

加島 私はSNSから入ってすぐ朗読を拝見したので、違和感がなかったんです。こういう身体の人が、こういう声の人が読んでいらっしゃるということに全然違和感がなくて。納得させられるというか。あまり自分の声を好きじゃないとおっしゃるけれど、成宮さんをお招きするにあたって事前に学内で行った勉強会のときにも、成宮さんの声でこれが読まれるからいいんだっていうふうに学生も言ってくれました。私もそう思います。ある種武器にされてるようにも思うんですけれど。

成宮 SNSって情報を得るツールとか、コミュニケーションのツールというのもありますけど、わたしはちょっと違う使い方をしています。日常のなかで、たとえば夜中眠れないときって、みんな寝ちゃってるから自分だけ5時55分みたいな時間にまだ起きていて取り残されている絶望を感じたりするんですけど、「寝れない」で検索すると世界中にはたくさんの「寝れない」人が5時55分に同じことを書いていてリアルタイムで存在しているのがわかるわけですよ。そこでほっとするとか。

すごい腹が立ったときに、悪い言葉や汚い言葉を検索するとそう思っている人がいっぱいいるわけですよ。それを見て「ああ、自分だけじゃなかった」って安心するために使うことがすごく多いので、自分が書いたことで誰かが検索をしたときに「あ、同じ人がいる」になればいいなと思って、書いています。

加島 いまのお話と成宮さんの詩の具体的な話をつなげられるかなと思うのですが、「わたしたち」という三人称複数形を詩のなかで使われますよね。その使われ方が面白いなと思って。

成宮 わたしはいろんなことを話すときに「わたしたちは」といつも思っていて。でも「わたしたち」って言うと、たとえば「アイドルが好きなわたしたち」とか、「唐揚げにレモンをかけてほしくないわたしたち」みたいに限定されたわたしたちになってしまうんですけど、でもいまここにいるときって我々がみんなで話している、わたしたちが共有した時間なので。それぞれ別々でいて、同じアイドルが好き同士というわけでもないわたしたち「それぞれ別々だけど、別々なわたしたち」っていうのが、自分の中では重要なんです。

加島 「わたしたち」と限定することで差異を消してしまうのではなく、それぞれでありながら、でも、わたしたちである、と。

成宮 そうです。一緒じゃないことも一緒に存在している、というか。決して単独ではない。ひとりではないけれど、一緒でもないわたしたち。

加島 それぞれに人生は送っているけれど、いま寝られないのは一緒ということですよね。「わたしたち」であることが重要ということでしたけれど、この「わたしたち」というのがどういう「わたしたち」なのかなというのが気になっていたんです。

松浦理英子という小説家の『最愛の子ども』という小説では、女子高生が3人が出てくるのですが、そこにはマジョリティの価値観とは異なるセクシャリティを生きている女の子が出てくる。そこで3人の女の子たちが「わたしたち」という言葉を使うのですが、そこでは世間の無理解、自分たちのセクシャリティのあり方に無理解な世間と対峙し、守っていく、「ここはシェルターなんだ」という意識で「わたしたち」という三人称複数形が使われているのですが、成宮さんもそういう使われ方をしているのかな、と。

成宮 そうだと思います。伝わる人にだけ伝わればいいっていう芸術はそれはそれで強い意志があってかっこいいと思うんですけれど、私は強欲なので、全員にわかってほしいし、全員をわかりたいし、みんなが寝れない日に何をしているのか本当に知りたいし(笑)。

朝ご飯何を食べて、なんでそれにしたのかとかも知りたいし、好きな歌詞とか、本の付箋を貼った部分とか、なんでそこに貼ったのとかも知りたいから、なんていうんだろう、全部を含めて「わたしたち」というか。

加島 どこまでも、際限なく。

成宮 そうですね。知らない人のブログを20年ぐらい読んでて、子どもが大人になって大学に入って東京に行って、また石川県に戻ってきて、犬が亡くなり猫を飼いみたいな、人の人生を知るのがすごい好きなんです。

加島 すごいですね。さまぁ~ずの三村さんの娘さんが結婚したときに、「えっ、俺、小学生のときから(テレビを見て)知っているけど、もう結婚!?」みたいなことを私は思ったことがありますけれど、それとはまた全然違うあり方ですよね。そんなに人に関心をもてるというのは、なぜなんですか。

成宮 コミュニケーションができなかったから。

加島 その分、いま。

成宮 基本はそうです。本当は話したかったこととか、本当は聞いてみたかったこととか。今後の人生で全部取り返さなきゃいけないので、私は。忙しいんですよ(笑)。コミュニケーションを取ることに。

加島 でも、すごいなあと思うんですよ。私、本当に人間が嫌いなので、本当にそれがすごいなあと思うんです。

成宮 穏やかにそういうこと言う人、いちばん怖いです(笑)だまされちゃいけないぞ、と。

加島 ほんとですよね(笑)

■生きづらさの話をするために

加島 「わたしたち」がどこまでも際限なく広がっていくということと、成宮さんが最大公約数的な言葉の選び方をされていることには関係があるかなと思うんです。

たとえば『あなたのドキュメンタリー』という詩では「鬱の苦しさも、[/]あなたの生きづらさも[/]確実に突き刺さるように言葉にしたい」と書かれていて、だから誰もに突き刺さるような言葉を選んでいらっしゃるということかなと思うんですけれど、そういう意図はありますか?誰もを包含できる言葉を選ぶというような。

成宮 最初メンタルヘルス業界だけで活動していたときは、もうちょっとピンポイントに言ったりもしたんですけれど、それこそいろんな場所でずっと同じ話をしていると、自分が思っていなかった層の人とか、さっきバスのなかで一緒に乗っていた人がいるみたいな。その人が全く違う世界の人生だと思っていたら、ライブハウスで会って「あ、同じところに来てしまった」みたいなことが起こるので、自分の伝えたい範囲、自分のなかの世界の人々の範囲が、ちょっとずつちょっとずつ広まっていって、ますますコミュニケーションに強欲になりました(笑)

なのでピンポイントの言葉じゃなくて、もっと手前にある生きづらさのことを書いたら、行きたかった場所も、行きたいと思っていなかった想像以外の場所の生きづらさもわりと回収できてつながれるんだと思いました。

加島 なるほど。自分が投げられるボールでいま自分はここまで投げられるから、ここまで投げよう、ということですか。

成宮 そうですね。そこまで投げたら今度その人が「あれ?こんなボールでいいなら、俺でもできるな」みたいに、その人もまた投げるじゃないですか。バトンリレーみたいにしたら、どこまでもいけるかな。

加島 成宮さんの詩は言葉の強度がしっかりあるので、誰でもできるか、というとそういうことではないように思うのですが。

成宮 でも詩じゃないっぽくみえるならば。それなら「俺でもできる」って思うかなって。

加島 だから詩のグループのなかにあまり入れてほしくないというのもある。

成宮 そうですね。自分であまり「詩」という色をつけたくない。

加島 高尚で手が出しにくいものになってしまうと、もったいないというか。

成宮 もうちょっと便利なツールとしても使ってる人がいてもいいと思う。

加島 たとえば、成宮さんの詩のなかにジェンダー性があまりみえないのは、――間違いなく生きづらさのなかにジェンダーのこともあったと思うんですけれど――そういうものを入れないというのも、おっしゃっていただいたようなことがあって。

成宮 はい。ただお客さんにもけっこう来てくださっていて、実はって話してもらったりします。核心よりだいぶ手前の方の言葉でも、誰かの心の中にその気持ちのもやもやが浮いてるとしたら、そこにつながっていけるなあと思って。手前にある言葉だとしても、生きづらさへのニュアンスは薄まらないと思っています。

加島 なるほど。詩を書かれるうえでは個人的なこともかなり絞り込まれているけれども、ということですよね。たとえば、『世界は水面』でイトーヨーカドーのベンチというものは出されるけれど、もっと生々しい話というのは書かれていない。

成宮 「あるある」の方が人が明確に想像できるかなと思っています。本当はその「あるある」の話がしたいわけじゃないし、その先にあるそれぞれの生きづらさの話をしたいんですけど、それをするためにはイトーヨーカドーの紳士服売り場の、ももひきとか肌着ばかり売ってるおじいちゃんおばあちゃんしかいない階の、トイレの前に白いプラスチックのベンチがあって、そこにいたのって話をすると「自分も実はピーコックで……」みたいなことを思い出してもらえる。そうすると本当に話したかった生きづらさの話の共有ができる。

加島 なるほど、なるほど。具体的なものが出てくるときは、それが共有できる場面で、ということですね。

成宮 他の人のイトーヨーカドーを知りたい。

加島 なるほど。私のイトーヨーカドーのベンチはなにかなーと考えてきたんですが、誰も知りあいのいない学会(笑)。誰も知り合いがいない頃がすごく楽しかった。誰にも気働きをしなくていいあの空間。学部生のときに出入りしていた頃が一番楽しかった。大学院生以降は知り合いが絶対いますし、今は下手をすると仕事が振られるので(笑)

成宮 大学院の人と関わらないようにしているんですか?色がついちゃうから?

加島 いや、私はもうかなりもう色がついているので。私が出した本は「反原発」の色がすごく強い本なので、色はかなりついてますから。だから私と考え方が異なる人が話しかけてくるってことはあまりないんですよね。「高市早苗さんが大好きです」っていう人は私のところには全然来ないわけです(笑)

そのことを私は嫌に思っているわけではないので、色がつくということが嫌なわけではないんです。ただ私は本を出すことで、もっと色々な人とつながれると思っていたんですね。私が『終わっていない、逃れられない 〈当事者たち〉の震災俳句と短歌を読む』(文学通信、2024年)という最初に出版した本を、文学の研究書として出さず一般書に開くようなかたちで出したのは、いろんな人とつながってお仕事がしたいと思ってたからなんですけど、結局読んでくれたのは文学関係の人がほとんど。

ジャーナリストの人などにも送ったんだけれど、ほとんど反応がなかった。この人たちも東日本大震災の被災者の俳句や・短歌を読んでいたんですけど、その分析までいちいち読もうとは思わないんだなと思って。私の本を褒めてくださっているときも、「この本、文学の本だけど、文学のことだけじゃなくて社会のこともちゃんと書いてあるよ」って褒められ方をしたんです。そのときに、文学のなかの話だと思われると、そこから広がって読まれることはないんだなと忸怩たる思いをすごく感じました。なので私は反原発だったり文学研究者だったりという色がついている分、予期せぬ人が読んでくれたという経験には乏しいかもしれないです。

成宮 こんなに生きづらいけど、でもできるだけ誰も死なない方がいいよってずっと言ってるのに、なぜか超保守の人が「感動しました」って言ってくださったりして、「……聞いてた?」って内心は思うこともあるんですけど、でもきっと彼ら/彼女らのなかでは「誰も死なないほうがいい」の「誰も」と超保守の考え方が両立をしていて、私個人としてはあまり共感できない人のなかにも私が削ぎ落としてしまった生きづらさがあったのだなと思いました。その生きづらさをきっと拾う場所がないから彼ら/彼女のなかでは私の言っていることと、ネトウヨ的な思想がきっと同じお皿に乗ることができてしまう。

加島 ネトウヨの人たちの生きづらさって、たぶん拾う人が誰もいないんだと思うんです。同様に大学研究者の生きづらさを拾う人もたぶん誰もいないので、私は成宮さんに拾っていただいたんだと思うんです。

成宮 あ、ようこそ(笑)

加島 ありがとうございます(笑)研究者も懇親会の二次会・三次会まで残ってお酒がすすみはじめると、「実は俺も抗うつ剤を何年飲んでいて……」みたいな話がでてくるんですが、そこまでいかないとみんな出さないんです。マッチョな男性性から降りたらいいって言いながら、そんな話は全然みんなしてくれないし、私がしゃべっても、「聞いちゃいけない話を聞いた」みたいな反応をされてしまう。

私は大学院生のとき障害者支援施設で5年くらいバイトしていたんですけど、「加島君、どこでバイトしてるの?」「障害者支援施設です」って答えたときに、すーっとどこかに行っちゃうみたいなこともあり。「ちょっと待ってよ、振ったのそっちじゃん!」とは思うんですけど、そんな雰囲気の業界なんです。込み入った話には入らないというか。

成宮 言ってあげたらいいんですよ。リリーフランキーさんだって「鬱は大人のたしなみ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと友達になれない」って言ってたよって教えてあげたらいいです(笑)

加島 ほんとそうですよね。「鬱の人はだいたい、友達」ですから。

成宮 でも元気にみえる人のなかにも、寝られない夜がいっぱいあるっていうのは本当に忘れないようにしようって思います。意識的にそう思わないとすぐ忘れてしまって、目に見えやすいところばっかり生きづらいと思ってしまうから、わたしたちは。